指揮者・駒井みどり
音楽とともに歩んできた、ひとりの人生の記録

白馬で音楽に包まれた幼少期から、遠回りや苦闘を経て指揮者の道を切り開き、師たちとの出会いと学びを重ねながら、人生そのものを通して音楽と向き合い続けてきた。その時間の積み重ねの中にこそ、駒井みどりの言葉や音楽の重みがあります。
音楽家・駒井みどりの音楽の原点は、舞台やレッスン室ではなく、長野県・白馬の自然の中にありました。東京生まれですが、2歳から小学校に上がるまでの幼少期を白馬で過ごし、父の建てたロッジで育ちました。
父が最新のスピーカーを野外に向けて設置し、山の空気の中にクラシック音楽が流れているのが当たり前の日常。音楽は「学ぶもの」ではなく、「身体が自然に吸収するもの」として存在していました。
この体験が、後に「音楽とは想うこと」――人を包み、つなげるもの――という感覚の土台になっていきます。
高校時代の友人とともにアメリカの大学へ進学し、当初は児童心理学を専攻していましたが、取り巻く環境の変化をきっかけに、最終的に音楽学部へ移ることになります。
ピアノや声楽の専攻では遅いと判断し、自らの資質と可能性を見極めた上で「作曲科」を専攻しました。4年課程を2年半で修了するという集中力は、すでにこの頃から彼女の生き方を象徴していました。
帰国後は、英語力を活かして外資系の会社でOLとして働いていましたが、来日したヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)による指揮者コンクールを観に行き、「あれをやりたい!」という強烈な直感を得ます。
その後、指揮者を志すも、当時の日本では「女性が指揮者になりたい」と言えば眉をひそめられる時代。それでも、音楽アカデミーで英語教師のバイトや雑用の合間にピアノを弾き、学び続ける日々を重ねました。
「現実と向き合いながら、それでも手放さなかった時間」でした。
この苦しい時期、精神的・経済的に支えてくれたのが、駒井さんが「おばちゃま」と呼ぶ女性でした。お菓子作りの先生として多くの人に親しまれ、人生のさまざまな相談にも耳を傾ける存在だった。駒井さんにとっては、苦しい時期を精神的に支え、進むべき道を信じ続けてくれた、メンターのような大切な存在でした。
「自分の一番やりたい事を見つけなさい! そして何より『常に自分自身の最高』を生きてみなさい!」
その言葉は、彼女の人生そのものになります。それはまた、人生のある瞬間に、誰かが自分を信じ切ってくれた記憶でもあります。
指揮者の道を本気で志した駒井さんが、強く影響を受け「師匠」と仰ぐことになる存在——それが、日本を代表する指揮者の一人、岩城宏之氏でした。当時の日本で、特に20歳をとうに過ぎた女性が「指揮者への道」を歩む門は皆無でした。
あちこちでの長い苦闘の末、「おばちゃま」からさえも、「一度すべてを捨てて、彼(前々からプロポーズをしていてくれた、当時アメリカに赴任していた今の夫)を訪ねてごらん! 人生はどこで何が開けるか分からないよ!」というアドバイスをもらいます。
そこで、最後に自分の残念過ぎる想いをぶつけようと、岩城氏の著書の最終頁に記されていた連絡先を頼りに、日本の音楽界への絶望と怒りと諦めを綴った、30枚にも及ぶ情熱的な手紙を書き送ります。人生そのものを投げ込むような手紙でした。
そうして、「もう指揮者への道は諦めるしかない」と覚悟を決め、アメリカへ発つ前日のこと。「リハーサルを観に来なさい」という岩城氏からの返事が届きます。
普通であれば、多忙な岩城氏宛のそのような手紙は秘書が目を通して捨てられてしまうところ、たまたま手紙が届いた時期、岩城氏はたった一人での静かな休暇中でした。秘書は駒井さんの手紙を「暇つぶしの読み物」として、他の雑誌などと一緒に送ったのでした。
アメリカに発ってしまっていたら受け取れなかったその1通の手紙を、そのタイミングで受け取れたことで、駒井さんの人生が大きく動きました。

岩城氏は、指揮者の仕事がいかに過酷なものかを丁寧に説明し、その「戦場」の入口に立つ「日本人女性」の駒井さんに、思い留まるよう説得します。しかし、駒井さんの覚悟が据わっていると判断すると、「指揮者は歩いて来て指揮台に立って最初の一振りで、本当に指揮者に向いているか分かる」とおっしゃって、簡単な「試験」をされます。
それから岩城氏は、オーケストラの事務所を通じて、駒井さんが滞在するテキサス州の田舎町のオーケストラ指揮者を探させ、その人宛に推薦状を書いて持たせます。
駒井さんがその推薦状を持って、町のオーケストラの音楽監督であり、テキサス大学音楽科の学部長でもあったチャベス(Chavez)氏を訪ねると、折しも彼は指揮のアシスタントを探しているところでした。駒井さんは、次の週からの各高校の精鋭だけを集めた「ユースシンフォニー」のリハーサルの半分を任せられることになります。
狭き門の音大の指揮科に合格して勉強しても、なかなかオーケストラを実際に指揮させてもらえることはないのだと、駒井さんは後から知ることになります。最初からリハーサルや本番のノウハウを、チャベス氏のもとでユースオーケストラとともに実践で学べたことは、何よりの幸運でした。

それから、各地のメジャーオーケストラへ客演で訪れる岩城氏の指導を受けながら、アメリカ中のさまざまな若い指揮者向けのマスターコースやオーディションにも挑戦します。
ニューヨーク、ボルティモア、シカゴ、ヒューストン、サンフランシスコなど、主なオーケストラのホームグラウンドでの挑戦で、全米どこでもオーケストラとのマスターコースに選ばれ続けるようになります。
カリフォルニアで開催されたヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)氏のマスターコースでは、最終コンサートで2年連続金賞を受賞。ロサンゼルス・タイムズに絶賛されます。
しかしながら3年目、同じコースで落選を経験します。その瞬間、「もうこれで終わりだ」と思うほどの強いショックを受けました。周囲の落選者たちは怒りながら帰って行きましたが、車を持たなかった駒井さんはすぐに動けず、まるで一人残されたような状況でした。
失意の中で向かったのが、宿舎のホールにあった公衆電話でした。日本で彼女を支え続けてくれていた「おばちゃま」に、泣きながら国際電話をかけます。
「オーディションにも受からなかったし、前からの友人もみんな帰ってしまった。私ももう明日帰ろうと思う」
当時、国際電話は非常に高額でした。本来ならコインを次々と入れなければならないはずでしたが、なぜかその電話は「その時だけ」壊れており、25セントを入れただけで、2時間もの間、切れずにつながり続けたのです。
その2時間、おばちゃまは必死に語り続けました。
「何があっても最後まで居なさい! あなたがその場所に行ったということには、必ず意味がある! 何が起きるか分からないんだから、絶対に残っていなさい!」
その言葉に背中を押され、駒井さんは、「もう一度だけ、最後まで見届けよう」と、その場にとどまる決意をします。
翌日のマスタークラス第一日目、オーケストラとのセッションを見届け、聴講生として会場の片付けを終えて帰ろうとする駒井さんを呼び止めたのが、ブロムシュテット氏でした。
「なぜ君は帰らなかったのか?」
そう問いかけながら、前年までの実績を高く評価し、実は意図的に今回は他の人たちにチャンスを与えたのだと真意を明かします。
そして、2週間に渡るマスターコースの最終コンサートの次の朝。朝食の会場で、おばちゃまの言葉通り残っていた駒井さんの隣にブロムシュテット氏がお座りになり、こうおっしゃいました。
「この秋から10年間、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督になるが、その間いつでもリハーサルを見学に来なさい。オーケストラの指揮者付秘書マーシャ(Marcia)にも話しておくから」
それからの10年間、サンフランシスコのデイヴィスホールに入り浸りで、ブロムシュテット氏とマーシャ、そしてオーケストラのもとで学ぶ日々が続きます。この10年間で学んだのは、指揮技術だけではありません。音楽家としての倫理、人と人が衝突する現場での在り方、指揮者が「場」に与える影響、音楽が人を整え、まとめていくプロセス——それらは、「人生として体得した10年」でした。

サンフランシスコでの10年にわたる学びを経て、駒井さんは結婚を機に、アメリカから香港へと移り住みます。ここで過ごした日々は、指揮者としての理論や思想が、「現実の中で試され続けた時間」でした。
香港でのキャリアのきっかけは、現地での縁から生まれた、新設音楽学校の卒業生によるオーケストラのマネージャーとの出会いでした。当時、香港バレエ団では公演の伴奏のオーケストラ指揮者を探しており、駒井さんは未経験ながらも「何でもやらせてください!」と手を挙げ、「バレエ指揮者としての仕事」を引き受けます。
バレエの指揮は、通常のコンサートとはまったく異なる世界でした。主役となるダンサーによって、動きの癖も呼吸もテンポも違う。指揮者には、普通のコンサート通りに振るのではなく、「ダンサーの呼吸と動きに音楽を合わせ続ける柔軟性」が求められます。
当時、香港では返還前の高度成長期真っただ中、イギリス統治時代最終期で、バレエ団もオーケストラも大金持ちでした。ともかく「沢山の本番」があり、バレエの指揮者としてはリハーサルから本番まで徹底的に現場に揉まれる日々。ここで駒井さんは、「音楽を支配する」のではなく、「音楽が立ち上がる瞬間に身を委ねる感覚」を身体で覚えていきました。
さらに当時、香港のメインのオーケストラ、香港フィルのメンバーは、英語圏の国々から2〜3年の短いスパンで入れ替わり立ち替わりに在籍する強者奏者が集まっていました。出身国同士の歴史的な感情や偏見が持ち込まれることもあり、リハーサルは常に緊張感に満ちていました。意見が衝突し、立ち上がって物を投げ合うような激しい喧嘩が起きることも珍しくありませんでした。
その中で駒井さんは、「海外国籍の若い女性指揮者」として、軽く見られることも少なくありませんでした。荒くれ者のような団員たちを前に、指揮者としてその場に立ち続けるには、技術だけでなく、逃げずに「常に自分自身として」そこに立つ姿勢が必要でした。
こうした「戦場」のような現場を経て、駒井さんはある確信にたどり着きます。
どんなに仲が悪く、どんなに文化や言葉が違っていても、「この音楽が好きだ」「この曲を再現したい」という共通の想いがあれば、合わせた音が鳴った瞬間、人は一つになれる。
その後、香港フィルハーモニー管弦楽団や香港シンフォニエッタなど、香港の主なプロのオーケストラを指揮する中で、駒井さんは高い評価を受けるようになります。この香港での原体験こそが、後に語られる「ステージと客席が一体となって音楽を共有する」という理念の、「最も現場的で、最もリアルな土台」となっていきました。

70代に入り、駒井さんは大きな病を経験します。生きることも、指揮台に立てることも、決して当たり前ではない。その現実を身をもって知ったことは、彼女にもう一度、自分の人生と音楽の意味を見つめ直させました。
そしてその時、改めて心に立ち返ってきたのが、師・岩城宏之氏の言葉でした。
「音楽とは想うこと」
技術でも、形式でもなく、人が人を想い、音がその想いを運び、場をひとつにしていくこと。自分が人生をかけて学び、体得してきたものは、結局この言葉に尽きるのではないか。駒井さんは、そう強く感じるようになります。
だからこそ今、もう一度、自分の指揮で音楽を届けたい。師から受け取ったその教えを、自分自身の人生を通して、次の人たちへ手渡すために。
この2年間、駒井さんは志をともにする音楽家やそれを支える人たちと少しずつ出会いながら、小さな編成でのコンサートを重ねてきました。一人、また一人と仲間を増やしながら続けてきたその歩みは、やがて10回を超える公演として積み重なっていきます。
そして、その延長線上にあるのが、2026年9月、心の故郷・白馬で開かれるオーケストラ公演です。小さく始まったこの音楽の試みが、初めてオーケストラという大きな形へと結実する。それは、師・岩城宏之氏の没後20年という節目に開かれる、ひとつの集大成でもあります。
この公演は、過去を懐かしむためだけのものではありません。人生を通して受け取ってきた「音楽とは想うこと」を、いまこの時代に、もう一度響かせるための挑戦です。

この人生ストーリーを書きながら感じたのは、駒井みどりさんの歩みは、単なる経歴や出来事の列挙では捉えきれないということでした。
白馬で音楽に包まれた幼少期から、遠回りや苦闘を経て指揮者の道を切り開き、師たちとの出会いと学びを重ねながら、人生そのものを通して音楽と向き合い続けてきた。その時間の積み重ねの中にこそ、駒井みどりさんの言葉や音楽の重みがあるのだと思います。
この記録は、そうした歩みを、出来事だけでなく、その奥に流れていた想いや意味ごと残したいという願いからまとめました。
華やかな成功談としてではなく、ひとりの音楽家が、人生をかけて何を受け取り、何を手渡そうとしてきたのか。そのことが、少しでも伝わるものになっていれば幸いです。
編集・構成:砥綿直樹(取材内容を丁寧に残すため、AIの補助も活用しながら編集)
※本稿は、駒井みどり氏ご本人による修正を反映しています。
※参考資料:公益社団法人日本指揮者協会ウェブサイト掲載記事 ほか
岩城宏之氏(1932–2006)
日本を代表する指揮者の一人。NHK交響楽団正指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督などを歴任。演奏活動に加え、著作やエッセイでも広く親しまれた。
おばちゃま
駒井みどり氏が「おばちゃま」と呼んだ女性。お菓子作りの先生として多くの人に親しまれ、人生のさまざまな相談にも耳を傾ける存在だった。駒井氏にとっては、苦しい時期を精神的に支え、進むべき道を信じ続けてくれた、メンターのような大切な存在。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908–1989)
20世紀を代表する世界的指揮者。世界最高峰のオーケストラの一つ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を長年率い、芸術監督・終身指揮者としてクラシック音楽界に大きな影響を与えた。
チャベス氏
駒井みどり氏がアメリカ滞在中に出会った、町のオーケストラの音楽監督であり、同時にテキサス大学音楽学部長でもあった人物。駒井氏に実地での指揮経験の機会を与えた。
ヘルベルト・ブロムシュテット氏(1927– )
スウェーデン出身の世界的指揮者。サンフランシスコ交響楽団音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団カペルマイスターなどを歴任。深い音楽性と誠実な指揮で国際的に高く評価されている。
マーシャ(Marcia)
サンフランシスコ交響楽団で、指揮者付秘書としてブロムシュテット氏を支えた人物。駒井みどり氏が現場で学ぶうえで重要な存在となった。